実験ユニットによる初の福岡公演!昨年、吉祥寺のOngoingにて上演され、困惑と失笑と熱狂の渦を巻き起こした作品を、福岡にて再演します。
「実験ユニット」とは、神村恵 ねじぴじん 高嶋晋一 スズキクリ 手塚夏子が、個人的な欲求を超え、匿名の秘密基地で究極な遊びをするユニットの名前である。手塚夏子と神村恵の二人では今まで3回、このユニット名義で作品を上演している。手法の交換に取り組んだ『神村の手塚と手塚の神村』を皮切りに、お互いのズレを作品の要として作った『毛穴の高気圧』そして、今回再演となった『半魚人面魚』である。
振付・出演: 神村恵 手塚夏子
日時:2014年6月19日(木)19時30分
20日(金)19時30分 ※開演30分前より受付開始。
終演後、アフタートークあり。
19日 アフタートークゲスト 康本雅子さん(ダンサー・振付家)
20日 ミニワークショップ付きアフタートーク
会場:冷泉荘B棟1階 2コ1多目的スペース
(福岡市博多区上川端町9-35)
チケット:2,000円
ご予約/お問合せ
natsukote@gmail.com070-5550-9321(手塚)
info@kamimuramegumi.info(神村)
「手塚夏子のダンス活動」:http://natsukote-info.blogspot.jp
●現代美術家の高嶋晋一さんが書いてくれたレビュー(力作!)。
「得体」というプロセス――神村恵×手塚夏子《半 魚 人 面 魚》について得体の知れないものを知るとはいかなることか。それはある対象の虚飾を剥がしその真の姿、正体を暴くというより、そもそも対象としていまだ認知されていないもの、実在するかどうかも定かでないもの、つまりは体を成さないものに体を与えることである。それは単に静観的な認識ではなく、発見と発明とが区別をなさなくなるような特殊な事態だ。身体の発見とその使用法の発明は同じことである。身体が存在することが前提にあって、それによって可能な何がしかの行為が、ダンスなのではない。身体をもたないもの、あるいは身体を喪失しているものが身体を得る、文字通り「得体」の過程こそが、ダンスを生じさせるのである。そして、はじめに自らの身体の固有性があるのではないのだとしたら、それを得ようとして「他ならぬ自分の身体がある」という感覚を掘り下げる作業と、感覚を素材にして「他でもありうる何ものかの身体になる」作業とは、必ずしも異なることではなく、むしろ相似的な工程を経るはずだ。神村恵と手塚夏子という、まったく方法論を異にするが、身体に関する類い稀なるリアリストである点では共通する二人のダンサー・振付家が、《半 魚 人 面 魚》と題されたデュオ作で到達したのは、この認識である。
想像力は未知に向かう力である。だがそれは同時に既知に縛られ、既知を拠り所にしてしか作動しない。古今様々に描かれてきた未知あるいは想像上の生き物は、例えば人の上半身と魚の下半身をもつ「人魚」のように、ほとんどが既知の生物の部分が組み合わさってできている。私たちは、「群盲象を撫でる」方式で、部分部分の要素を既知のものに当てはめることからしか、得体の知れないものを知っていくことはできない。しかし、すべて既知に当てはめ終えた(と思った)途端、その得体の知れなさ、未知の未知たる所以である想像しがたさは消え去ってしまう。それでは「半魚人面魚」とは何だろう? この名称からどのような生物が想像できるだろうか。半ば半魚人で半ば人面魚? 「半魚人」は人の形をベースとして表皮と顔が魚、「人面魚」は魚の形をしているのに顔は人である。それらは容易に想像でき、ゆえに既知の表象として流通している。だが、「半魚人」と「人面魚」が一つに融合している様を想像しようとすると、ちょうど「円い四角」を思い起こそうとするときのような困難を感じざるを得ない。人が分母で魚が分子である者と、魚が分母で人が分子である者とが、その差は解消されぬまま共存するとは、一体どういうことなのか? 神村と手塚は、それぞれが「半ば魚で半ば人」な形象をもつ二種類のアイノコ生物をさらに掛け合わせることで、幾ら部分を捉えたとしてもその全体には辿り着けない、想像も実現も不可能な仮象Xを作品の起点として掲げる。
2013年9月15日の第一回公演では、三種類のテキストが使用されていた。(a)「母親は人間だが、尻に鱗があった。父親は魚だが、手と声は人間だった」「人気のない山奥で独りぼっちで暮らし、日光がきつい所では体が縮んでいくように感じられた」などといった、半魚人面魚をめぐるとおぼしき物語の断片(ただしそこには「半魚人面魚」という名も「私」という主語も省かれている。彼女または彼は、誰も継承し得ないミュータント、「種でありながら個」という異端者である)。(b)「見た目を想像しながら動く」「体のすれる音から入り込む」「それっぽい形をすばやく作る」「皮膚感覚から実感する」「メイクをし、顔の表情を作る」といった、その物語を実演する際のアプローチの仕方を簡易的に記したインストラクション。(c)演じるパフォーマーの頭文字を示すアルファベット「K」「T」「KT」。これらのテキストの書かれた紙片が逐一セットで壁面に貼られ、それに従って順々に事が進んでいく構成がなされていた。おそらく(a)(b)(c)の対応関係やそれぞれの順序は、前もって決められておらず、シャッフルされその場で組み合わされて、そのつど場面がつくられる。つまりパフォーマーも観客も、部分的でしかない断片から、いまだ一つの像を結ばない半魚人面魚を、虚像を撫でるがごとく、手繰り寄せていくのである。「指示(計画)- 実行(実現)」という目的論な連関を単に批判して、「はじまりもなく終わりもないプロセス」を重視するだけでは、ある一定の状態を無際限に維持し続けるという、(より惰性的な)別の目的論にすり替わってしまう事態を回避できない。プロセスを開示することの内実は、身体を使って行なわれる様々な試行錯誤をただありのまま見せる、という自然主義にあるのではなく、求心性をもつ目的(仮象X)それ自体に分裂(矛盾)が含まれていることのリアリティを見極めることにある。そしてそれは、ダンス公演とわざわざ銘打たれたこの作品においては、「ダンスをする」のではない「ダンスになる」特異点の出現と関わっているだろう。
9月16日の第二回目は、(a)(b)のテキストが使用される点は変わらないものの、第一回のシステマティックかつ確率的な構成法は破棄され、より即興性の高いものとなっていた。物語テキスト(a)は日めくりカレンダー形式で束ねられており、その時系列は固定されている。ただしそのことで、物語がより単線的に進展し、全体の強固な枠組みになるというわけではない((a)の個々の文章間の因果関係が、はっきりしていないためということもある)。インストラクション(b)は床に並べられ、それをどのようなタイミングで行うかは、パフォーマー自身の選択に任せられている。つまり(a)の変化と(b)の変化が一対一対応していない。時間展開の基調となるのは、パフォーマーの一方が「半魚人面魚」というキャラクターを演じることに没頭して、他方がそれを演出しているかのように、批判的なコメントをするという、交互に繰り返される役割の転換である。得体の知れないものに「なる」ことから捻出される身振りと、それを外から距離をもって(あたかも知っているもの、対象化しうるものとして)観察することの鮮やかな切り返し。何より一回目と異なっていたのは、パフォーマーが別の衣装を身につけることを契機として、半魚人面魚の母親や、ミジンコとネジの合いの子である「ネジンコ」、イカとイカリの混合体の「イカリイカ」といった、半魚人面魚以外のキャラクターが登場することである(ちなみに、この有機物と無機物の融合というモチーフは、出目金とグイ呑みが子どもをつくるというエピソードのある、奇怪かつ荒唐無稽な藤枝静男の小説『田紳有楽』の世界を喚起させる)。この操作が加わることにより、演者とそれを見て監督する者の会話と、キャラクター同士の会話がときに混合し、語りのレベル、パフォーマーのいる位相が複数化していく(演者に語りかけるときはマイクを通して話し、キャラクターに向けては生声で話すという区別が設けられている)。
第二回公演がとりわけ傑出していたのは、在るものを再現することによるのとは別種の現実味を帯びてきたからだろう。得体の知れないものが、得体の知れぬままに体を得、想像だったはずのものの血が通い、身を軋ませる。それはつまり、神経(空想・妄想)に肉がついていくかのような、フィクションが立ち上がる過程の生々しさである。それは特に、「声と言葉をどのように使うのか分からず、そのことで迷うのだった」「「ば」という一文字が頭のどこかに張り付いた」「ある時、声が少しずつ歌のように流れ出始めた」という、発話や発声をめぐる一連の物語場面に顕著だった。キャラクターが特定の状況下で何かを感知したり、何かに反応したりするある種の学習過程と、パフォーマーが彼らの得ているであろう感覚に接近する過程とが重なり合うとき、基調であった「指示 – 被指示」の関係が浸食されるような効果が生じる(半魚人面魚の母となってる手塚の「ことば、ば、をしゃべりなさい、ば、ば」という発言にみられるように(「ば」は「ことば」の「ば」であるらしい)、キャラクター同士の会話にも「指示 – 被指示」の関係が含まれているせいもあるだろう)。また、他にも呼吸することや食べることなどの、口腔が担う行為を示唆する場面が多く見られたが、それは必ずしもパフォーマーが口という特定の部位を使うことに還元されてはいない。むしろ、パフォーマーの全身が入口でも出口でもある通路と化しているかのごとく、感覚できる器官をもたないままで感覚していることを確かめるような身振りとなって具現する。どんなことであれ、それが起こるならば、そこにおいて起こったことであるような場所こそが、身体である。それはブラックホールのようにバキュームのようにすべてを吸い込み吐き出すが、しかしそれ自身のみですべてであることはできないという矛盾を抱えている。「身体を得る」とはこの得体の知れなさを獲得することであり、ダンスは汲み尽せず統合できないものを、それでも「一体」と指し示す運動のなかにある。これまで、役柄や筋書きといったナラティヴな要素のない作品を発表してきた二人のダンサーが、あえて今回、あからさまにフィクショナルな枠組みを介することで迫ったのは、「社会的現実」という(ほとんど「すべて」と見なされている)得体の知れないもう一つの虚妄に拮抗し得るような、そうした「身体」という虚の包括性を再度生成させることである。