冷泉荘入居者交流会

管理人が山本から杉山に交代、そして9月から一気に三組の新入居者が決まったこともあり、さまざまな方が冷泉荘に出入りするようになってきました。そこで、みなさんの顔合わせを目的に、本日は冷泉荘の入居者同士の交流会を催しました。時間が16時からということもあり、スッとはみなさん揃わなかったものの、16時30分にはほとんどの方が揃いました。

ずらり。

管理人交代の挨拶、前管理人山本さんからの今後の活動の紹介と結婚のご報告。そして、順繰りに自己紹介をしていきます。なんだか新鮮です。たまにはこういうのもいいですね!なんだか気持ちがシャキっとします。そして、そのあとは一気に崩れて、みなさまからたくさんの食べ物・飲み物をいただきましてご歓談。その数も豊富、そして甘いものが多かったこともあっていろいろ残ってしまいましたが、16時すぎにスタートで22時近くまで会は続きました。

ぼくは、みんなの前で話すことは慣れつつあるけれど(まだまだ言い忘れることも多いけれど)、みんなで話しているときには聞き役にまわってしまいます。こちらから話をふる、あるいはいろいろ質問していくことが苦手。それがもどかしいと思う瞬間もある。けれど、このメンバーではそうは思わない。なんとなく、その「間」、会話に参加していない瞬間も、なんだかこの雰囲気が楽しいのです。もちろん、楽しい話が飛び交っているからというのもありますが、独特の流動的な雰囲気があります。聞き役な方も多い感じもしますし、なんとなく落ち着くんです。みんなそうなのかどうかわからないですが、なんでかなー?とふと考えてみました。なんとなく心が許せる仲間であると同時に、どことなく緊張感のある関係だからかもしれません。

「なかよしこよし」これはぼくの好きな人間関係ではありません。同じジャンルの方々の集まりですと、そうなりやすいかとは思いますが、それはなんだか刺激的ではないように感じます。福岡のアートシーンにはぼくはイマイチ関わってこずにきていますが、なんとなくそういう「なかよしこよし」的な、ぼくにはあまりよくない意味での「内輪」的な部分をいつも感じてしまいます。なんとなく輪に入りづらい。この場合、和、でも言葉的にはいいかもしれませんね。和に入りづらい。

ですが、冷泉荘は、住んでいる方も、みなさんの思いも、さまざま。これがアパートの面白いところでもあるし、もともと村などのコミュニティはそういうものですよね。たくさんのいろんな人がいる。バラバラな状態が、意図と関係あるなしにかかわらずつながり離れる部分がある。それはいたって普通なこと。そう思います。だからこそ、ぼくは落ち着いてみんなの話を楽しんでいたのだと思います。

話のなかで、「退屈」をどうとらえるか、ということについて考える時間がありました。

それぞれ独自の「退屈」感があります。ぼくは、ふだんあまり「退屈」を感じません。それは、ぼくが人や物事に積極的にはあまり関わらないというか、攻めないタイプであり、どこか緊張感をもって接しているからなのではないか、そう感じたりしました。

今日でた話の中ですごかったのが、玄英さんの友人の電車オタクのお話。「ゴトゴーンゴトゴトーン」という口のモノマネで、それが何線のどんな電車か当てっこして遊んだりするという。緊張感というと違いますが、自然と感覚を鋭敏にした状態、と言い換えると、ぼくの感覚と電車オタクの感覚が少し近づくような気がします。彼らは、電車からみえる風景、メカ、音、振動、、、それらを体で覚えているのだと思います。でなければ、真似して、それを当てることはできないと思います。体で覚えているからこそ、声として表現できるのであり、体で覚えているからこそ、それを自身の体験に置き換えてどの線路・電車かを想像できる。そして、それが遊びになっている。非常に感覚が鋭敏な状態へと、自然となっていると思われます。

だから、楽しい。「退屈」しない。

なんだか話がどんどんややこしくなってきてしまいました。飲み過ぎたかな?

乱文ですみませんでしたが、とにかく、独特な雰囲気が心地良くも山椒ようなぴりっとおいしい緊張も帯びたとてもいい交流会だったかと思います。この感覚・雰囲気・体験を忘れずに、いきたいですね。

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